『nyx』第2号第二特集「恋愛論」 趣旨文

 古来、人は恋に生き、恋に悩み、恋の歌を詠み、恋の物語を編み続けてきた。恋する者は一方で、相手の存在を渇望して、自分のものにしようと欲する。恋人達は、困難や障害に打ち克ってでも、いやまさに障害のゆえに、ますますいっそうお互いの合一化を望む。また他方で恋する者は、その愛のために相手を傷つけ、責め苛み、苦しめようとする。そうした恋愛感情のもつれは、ときにストーカーや殺人にまでおよんでしまう。恋の歓びは、灰色の日常生活を色づかせ、失恋の悲しみは、世界をひとつ失うことと同じほどの絶望を抱かせる。恋愛の歓びと苦しみは、洋の東西、時代の古き新しきを問わず、人間にとって普遍的な感情のように思われる。それがあたかも人生の最重要事であるかのように。
 しかし、それは本当だろうか。まず、現代において一般的に認められている恋愛とは、自由な個人相互の合意にもとづく関係だと言える。とはいえ、恋愛の実態を一瞥するだけで、ただちにこの想定は疑わしいものとなるだろう。相手の気持ちが自分の思い通りにいかないことは当然として、自分の欲望や情念もまた、自分自身にはどうにもならない。恋すべきでない人を好きになり、一度離れてしまった心はどうやっても引き戻すことはできない。また、恋人達の関係も、運命や偶然性といった各人の外部にあるものによって翻弄される。つまり、恋愛には何か個人の意志を超えたところがあるのだ。また、恋愛は古くから文学や芸術、娯楽作品の中に描かれてきた。「恋愛もの」というジャンルさえあるが、はたしてそこで描かれている「恋愛」とは、ひとしく同じものだと言えるだろうか。例えば、『イーリアス』『ロミオとジュリエット』『曽根崎心中』『ローマの休日』『ブロークバック・マウンテン』、それぞれに描かれている恋愛は、その見かけの形以上に、内実もまた異なったものだと言わざるをえない。それでもなお、これらに共通して同じ「恋愛」なるものがもしあるとすれば、それはどのようなものだろうか。さらに、恋愛はしばしば、婚姻、性愛、生殖と混じりあって承認され、社会的な制度の内に繰り込まれてきた。しかし、恋愛がそうした契機と重なり合うのは、避けがたいことだろうか。それとも、それらとは何かまったく別のものとして、純粋に恋愛だけを取り出すことはできるのだろうか。
 本特集では、このような問題意識のもと、文学および思想において語られた恋愛を取り上げることにしたい。日本の古代における恋歌と神、江戸期の恋の情念と衆道、近代日本における恋愛思想の成立、西洋中世の恋愛と神学、初期近代の詩・戯曲におけるロマンティック・ラブの誕生、そして現代におけるエロティシズム―これらの観点から恋愛を論じることを通じて、そもそも恋愛とは何か、それはいかなる意義をもつのか、そして、それは人間にとって本当に重要なものなのか、が明らかにされるだろう。