『nyx』第2号第一特集「ドイツ観念論と理性の復権」の合評会 (執筆:池松辰男)
2016年3月19日、一橋大学で、『nyx』第2号第1特集「ドイツ観念論と理性の復権」の合評会がありました。この合評会は、研究会「ドイツ観念論と自然主義の再検討」を第1部とする言わば"コラボ企画"であり、(特集の執筆者でもある)一橋大学の大河内泰樹教授のご協力を得て実現したものです。私は今回、特集の執筆者としてその場に参加させていただいたのですが、以下は、ささやかながら、その報告です。
今回取り上げられた雑誌『nyx』は、いわゆる思想系の雑誌としては非常に"若い"ながらも、全国紙にも取り上げられるなど、創刊当初から少なからぬ反響を呼んできました。若手研究者たちが分野や所属の垣根を越えて一堂に会し、時代の実用的な要求に性急に答えるのではなく、古典とされる思考に敢えて分け入って問いを発する・・・・・・『nyx』という雑誌の性格を誤解を恐れず敢えてざっくりまとめてしまえば、大方このようになるかと思いますが、それがこうして現に反響を呼んでいるのはやはり、本格的な思想へのニーズが世間一般に潜在していることの証しかもしれません。
その『nyx』の第2号の冒頭を飾るのが、今回の合評会のテーマである第1特集「ドイツ観念論と理性の復権」となります。この特集が(しかも話題の『nyx』の第2号で)[tt1] 組まれたことは、率直に印象深いものがあります。というのも、(フィヒテやシェリングといった)特定の哲学者ではなく「ドイツ観念論」全体に焦点を当てた(しかも一般にも開かれた)雑誌企画というのは、従来なかなかなかったからです(もう一つ理由があるのですが、それは後程)。実際、いくつかの書店で取り上げていただいたり、研究者間でこの特集の話題になったり、反響のほうもまずまずのところを得ているのではないかと思います。
閑話休題。今回の合評会では、特集の執筆者・訳者(大河内泰樹さん、桑原俊介さん、山田有希子さん、多田圭介さん、中川明才さん、中島新さん、加藤紫苑さん、浅沼光樹さん、池松)に加えて、嘉目道人さん、八幡さくらさん、後藤正英さんの3名の提題者の方が集まって議論を交わしました。司会を務めたのは、特集の主幹でもある三重野清顕さんです。最初に提題者の方から一人ずつ講評と質問が行われた後、その質問に答える形で執筆者・訳者の方からのお話があり、次いで会場全体での質疑応答がなされました。時間は2時間程度でしたが、スケールの大きな話からやや専門的な込み入った話まで、実に多様かつ濃厚な議論が戦わされていて、もっと時間があってもよかったと思うぐらいです。
さて、本当ならばその合評会での議論全部を逐一紹介して回りたいところですが、さすがに膨大になるので、ここでは私を含め恐らく会場のみなさんの多くが共有されたのではないかと思われるトピックを、一つだけ取り上げたいと思います。
それはずばり、「ドイツ観念論とは何か?」というものです。これは元々は大河内さんの「「ドイツ観念論」とはなにか? あるいは「ドイツ観念論」はなぜそう呼ばれるべきではないのか?」が提起したトピックですが、実は合評会のほうでも例えば、提題者の後藤さんが同じトピックに注目され、「ドイツ観念論」という呼称、「ドイツ観念論」の範囲、「ドイツ観念論」と他の哲学との関係などを改めて問題にしていたのです。
実際、現代のドイツの研究者の間では、「ドイツ観念論」という呼称に代わって、「ドイツ古典哲学」という呼称(この言葉自体は新しいものではないのですが)を採用しようという向きも出てきています。なるほど、「ドイツ観念論」というとき、そういうふうに括られる当の哲学者たちは必ずしも「観念論」を標榜していないことがありますし、逆に「観念論」を強く押し出すあまり、本当は関連しているはずの、同時代の他のドイツの哲学者たちが抜け落ちてしまうということもありうるわけです。・・・・・・第一、「観念論(イデアリスムス)」という言葉の意味がなんとも曖昧ですよね。
それから、どこまで・いつまでを「ドイツ観念論」に加えればよいかという問題も、なかなか深刻です。例えば、「ドイツ観念論」にカントは入るのか否か、カントを入れるとしたらカントの前(ドイツ啓蒙主義)はどうなるのか、カントを入れないとしてもどこまで・いつまでが「ドイツ観念論」なのか?・・・・・・この点、提題者の嘉目さんが、現代言語哲学の観点から、カントとカント以後との「分かれ目」は「自己関係性」にあると指摘したことが印象に残ります。ここではそのお話の具体的な内容にまでは立ち入れませんが、「ドイツ観念論」の区切りをどこに置くかという議論の、新たな呼び水ではなかっただろうかと思います。また同じく印象的だったのは、同じく提題者の八幡さんが、三重野さんの論文(ヘルダーリン)、桑原さんの論文(シュライエルマッハー)、中島さんの論文(シェリング/エッシェンマイヤー)などに特に注目して、美学の観点から立ち入った質問をしていたことです。結果として、「ドイツ観念論」のなかに、(「フィヒテ-シェリング-ヘーゲル」というような)単純な図式には括りきれない多様な議論の形が存在していたのだということが、改めてクローズアップされた形となりました。
以上はもちろん、私が見た限りでの、会全体の印象の一端でしかありません。先程も言ったように会そのものは2時間では本来到底収まりきらないくらいに濃い議論の連続だったわけで、それをかえっていささか切り詰めすぎた感もないではないとも思います。・・・・・・が、これにはちょっと理由があります。今回の特集と前後して、同じ堀之内出版からマルクス・ガブリエル/スラヴォイ・ジジェク『神話・狂気・哄笑』が上梓されました。私もその訳者の末席に加わらせていただいたのですが、そのときに編集者の小林えみさんから、「専門家以外も読むわけだから、ドイツ観念論とはなにかを分かりやすく説明せよ」という"宿題"をもらっていたのです。そのときは最後までちゃんとした答えが出ませんでしたし、まあ現在も出ていないのですが、それが頭に残って、合評会の場で以上のような印象を特に強く抱くに至った、というわけなのです。
宿題はなるほど正当なものだと思います。「ドイツ観念論とはなにか」が曖昧なままに放置されている限り、「ドイツ観念論」を読むことで私たちがいったいなにを学べるのか? あるいは「ドイツ観念論」は私たちにどんな問いかけをしているのか?・・・・・・こういう肝心なことも、結果的にハッキリしないものとなるかもしれないからです。その意味で、今回の合評会ではそれを考えるヒントが少なからず提供されたとも言えるわけで、ドイツ観念論を学ぶ者にとって等しく有意義なものであったのではないでしょうか。
最後にもう一つ。思い返せば、『nyx』におけるドイツ観念論特集のもう一つの特徴はまさに、従来の「ドイツ観念論」のイメージにはうまく括りきれない思想家たち(例えばマイモン、シュライエルマッハー、エッシェンマイヤー、ニートハンマー)にもきちんと焦点を当てているという点にあるのではないかと思います。その意味で―あたかも従来の「ドイツ観念論」のイメージを揺さぶるかのように―こうした多様な哲学者たちのテクストを取り扱う同じく多様な研究者が合評会という形で一堂に会したというのは、それ自体、記念すべきことであったと言えるでしょう。少なくとも私は、今回こうした企画に立ち会えたことを非常に幸運に思いますし(同時に自分の了見の狭さを思い知らされたわけですが)、こうした企画が機縁となって、(どんな呼称であれ)ドイツ観念論研究全体を盛り上がっていくことを願ってやみません。
ともあれまずは、今回の特集および合評会の労を惜しまずとってくださった、主幹の三重野さん、一橋大学の大河内さんに、いち執筆者・参加者・研究者として、お礼を申し上げたいと思います。
2016年5月1日掲載